シン・エヴァンゲリオン劇場版(警告!ネタバレ有り)
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シン・エヴァンゲリオン劇場版(警告!ネタバレ有り)

公開・更新

  • 2021/03/14 Sun. 公開
  • 2021/03/15 Mon. 一部修正・補足記載
  • 2021/03/17 Wed. 一部修正
  • 2021/03/24 Wed. NHK総合「プロフェッショナル」を視聴し追記

特に影響を受けている考察

弁解

まだ1回しか観ていません。色々ダメかも。

総括

大満足。

The End of Evangelion(以下EoE。いわゆる旧劇:旧劇場版。「新世紀エヴァンゲリオンAir/まごころを、君に」)ではリアルで辛いことがあって自分自身が否定されまくった後になんとか這い上がったという状態であったので、人類補完の辺りから劇場でボロボロ泣きまくってしまった。そういう意味では自分自身も補完され、本当に"The End"ではあった。

今回はそのようなことは無かったのだけれど、これまで広げるだけ広げ、畳むどころかその大風呂敷を観客にぶん投げて観客を大風呂敷の下でワタワタ呼吸困難にさせてきたエヴァが、しっかりと畳むところを畳み、テレビで放映された予告よろしく次々と決着がつけられていく様に、じんわりと浮かぶ涙を終始止めることができなかった。

率直なところ、EoEで"The End"を迎えることができた自分としては、新劇場版(以下新劇)などを始めた辺り、庵野監督は序のパンフレットで子供達のためのアニメへの危機感を述べてはいたけれど、「エヴァの継続的商業化を狙ってるだけでしょ?」と舐めていた。破でマリという新キャラが登場した際にも、「アスカやレイで刺せなかった嗜好(メガネっ娘・お気楽・すかしキャラ)を補った商業目的でしょ?」と舐めていた。Qでは「ナディアでは放映スケジュールに間に合わず、TV版エヴァでもスケジュールもストーリーも破綻させて、やっぱり作品を終わらせられない庵野。旧劇と何が違うの?」と更に舐めた。それら見くびった姿勢を全てひっくり返してきたのがシン・エヴァンゲリオン劇場版(以下シンエヴァ)であったと言えると思う。

パリでのカチコミ作戦

色々と思わせぶりな熟語や衒学的用語をばらまきながら、コア化パリのコア化解除とEuro NERV資材回収の命懸けの作戦を「カチコミ」と表現しちゃうセンス、好きだなぁ。もう冒頭から「トップをねらえ!」のガンバスターの雰囲気を醸し出しちゃってるのである。

なお、ガンバスターのバスタービームは、「交響詩篇エウレカセブン」TV版の最終局面でも登場しているのでよろしく。

Qでは真っ赤な大地に息が詰まっていたし、それは多くの観客にとっても同じであったと思うので、パリの街が封印柱を中心に本来の色を取り戻していく様は爽快であり、シンエヴァへの期待感が一気に高まる瞬間であったのではないかと思う。これを冒頭に持ってきて、0706作戦で先行公開するというのは、表現的にも興業的にも上手すぎだろう、と思う。

第3の村

生存者達と「風の谷」

アスカ・レイ・シンジのロードムービーがどこまで続くのだろう、と思っていたら、まさかの軽トラジムニー(自動車見間違え。ごめんなさい!)でのお迎え。聞き覚えがある声に、親しげな口調。まさか。

「第3の村」か「第3村」か、どうも「第3村」が正しそうだけれど。これも興業的大爆死により東宝をSF映画から遠ざけたとされる「さよならジュピター」のTOKYO-3(TOKYO-III)へのオマージュが継続しているのだろうか。

この第3の村で、「は?」と思わされる平和の日常を観続けさせられる。それは幾つもの意味でQからの反転の機会であるのだけれども。

生き物が棲まう清浄な水の流れ。新鮮な穀物や果物。そしてお互いを思いやる人々の営み。え、これ「風の谷」!?実際、風の谷を腐海の瘴気や胞子から守る風車群のように、封印柱を中核とした相補性L結界浄化無効阻止装置によって辛うじて守られている環境であることが分かる。

このL結界を阻止する装置や各種の支援物資は、WILLEやその支援組織KREDITによって村にもたらされている。Qでは「人命軽視がモットー」と表現されたWILLEが、しっかりと残された人類を守っている。これは大きな反転事項であり、救いともなる。

知恵・災害

第3の村では、あまりにも多くの要素が描かれる。

鉄道客車を利用した図書館は、人々がギリギリの生活を強いられながらも、知恵の獲得を捨てず人類たらんとし続けることを示している。そしてこの図書館は、くめがわ電車図書館 https://ennori.jp/3157/kumegawa-train-library がモチーフだろうか。

一日の汗を流す風呂も設置されているが、それは自衛隊が被災地に設置してくれている仮設風呂であり、我々はここ10年の凄惨な幾つもの天災を思い起こさずにはいられない。

「エコヒイキ」「コネメガネ」「ナナヒカリ」「バカシンジ」「ガキシンジ」「バカガキ」と、エヴァ界の有吉たるアスカがいつの間にかケンスケのことを「ケンケン」と呼んでいる。そしてケンスケの家にほぼ裸で居候を続けるアスカ。ここで何かを感じずにはいられない。

シンジはアスカの首のDSSチョーカーを目にして、トラウマを抉られ突如として嘔吐する。旧劇では自慰し射精していたが、今度は嘔吐するか。この汚さが良い。アスカはシンジの口にレーションを無理矢理押し込み、シンジはネルフ第2支部N109棟跡で引きこもりながら、黒波が届けたレーションを泣きながら貪り喰う。汚らしい。これが良い。水しか飲めず眠ることもできないアスカとは異なり、シンジが汚い人間のままでいることを示している。L結界の中ではアスカやレイと共にそのままで過ごせていたが、やはり清浄なる土地の方がお似合いであることが、シンジがまだ戻れる可能性を残していることを示唆する。

復活

ネルフ第2支部N109棟という数字にどのような意味があるのかは分からないけれど(109と言われると渋谷109くらいしか思い付けない。また第3の村は恐らく天竜浜名湖鉄道天竜浜名湖線天竜二俣駅周辺。少なくとも駅施設などはここを写し取ったもの。この近くに「第2支部」とは?)、「until You come to me」の舞台もここであったかと判明する。「until〜」ではコア化したブロック塀(堤防?)の上で黒波の手が崩れ去っていった一方、シンエヴァではコア化されていない支部施設跡地で黒波が一瞬ポカ波(破までのレイ。プラグスーツが白化する)化し、更にLCL化した辺りが異なるけれども。

「みんなあなたのことが好きだから」。誰もが言われたく、しかし言ってもらえることは稀な言葉を、ピュアな黒波はシンジにストレートに伝える。この言葉は、もしかしたら様々な感情を持ち始めたポカ波には発っせなかったかも知れない。ポカ波は「碇君がエヴァに乗らないでも良いようにする」と不言実行してしまうタイプであったから。黒波は容赦の無い優しさをシンジにぶつける。それで変わらなければお前が悪い、と言わんばかりの暴力的な優しさを。だからシンジはまた嗚咽する。それからどれだけの時間を経たのか分からないけれど、シンジはケンスケの家に戻ってくる。そこでアスカに散々に嫌味を言われ、シンジは「うん」とだけ応える。似たようなことがあった。TV版や序でネルフとミサトの家から家出したシンジ。TV版ではミサトはシンジを平手打ちし、序ではミサトは平手打ちしようとする自らの衝動を抑えた。そしてシンエヴァに至り、シンジは自らを省みて全てを受け入れる。この後も暫く、シンジは言葉を発さない。AAAヴンダーの中でマリに後ろから抱き付かれて「分からないよ」まで(いや、その前にサクラと言葉を交わしたかも知れない)。だが、カヲルの死での慟哭と、黒波のLCL化(死?)での慟哭との差を観客は感じ取っている筈。

AAAヴンダーに帰艦しヤマト作戦を開始する直前の対話となるが、アスカとの間のわだかまりにもシンジは答えを導き出す。アスカが何に対して怒りを覚えているのか、シンジは「アスカを助けることも殺すことも、自分で決めなかったこと」と答え、アスカはそれを正解として受け入れた。アスカを助けなかったことではなく、助けること・殺すことの決断から逃げたこと、アスカはそれに対して怒りを抱き続けており、そのことをシンジは過たず洞察した。シンジが最早ガキシンジではないことが明確に示された瞬間であった。

知ったふりへの戒め

トウジはケンスケに尋ねる。「シンジに冷たすぎやしないか?」と。少なくとも私にはその意味が分からなかった。トウジの家でうずくまるしかなかったシンジを自らの住処に引き取り、第3の村の中を連れて回り、シンジを内心心配するアスカにその旨の礼を述べる。シンジには時間が必要だと、その時間を設けてやることを買って出る。私には、ケンスケはこれ以上無いくらいに優しく思えた。しかし、トウジには、それがいつものケンスケでは無かったのだろう。このセリフに、私は「清浄化され、みんな助け合っている第3の村を見て、分かったつもりになってんじゃねぇよ」と頬を叩かれた。今は良い。しかし、ここに来るまでにどれだけの苦しみと悲しみがあったことか。「空白の14年間のことを、第3の村を見ただけで分かった気になってんじゃねぇよ」。

マイナス宇宙南極で述べられるが、トウジとサクラの父はニアサードインパクトで消滅してしまったようだ。ケンスケの父はサードインパクトをも生き抜いたが、事故であっさり亡くなってしまったそうだ。その墓参りでシンジが手を合わせた時、ケンスケの中のわだかまりが少しでも溶け和らいだのではないだろうか。そう願いたい。だから、ケンスケはシンジに父との対話を求める。

「君の名は。」

第3の村の描写では、見逃せないオマージュが一つある。それは、「君の名は。」で繰り返し繰り返し場面転換のために使われた敷居で引き戸が開かれる描写。これが全く同じアングルで一度だけ描かれる。そして、黒波がヒカリによる授乳を見ながら、自らの乳房を揉んでみる描写。これも「君の名は。」に似ていると強弁すればできるかも知れない。これは後に大きな意味を生み出す。

加持リョウジ

加持とミサトとの息子14歳。主人公達のかつての姿がそこにある。エヴァという作品に囚われて大人になった観客のかつての姿が、コア化した大地を復元するための実験スタッフとして、そこにある。

彼の父は彼が生まれる前に、サードインパクトを止めるために命を散らした。そして母は、自らへの戒めとして息子に14年間会っていない。

しかし14歳の加持リョウジは、とてもいい奴だった。青春ドラマであれば、歪んだboy meets girlでなければ、彼は主人公と良いコンビになっていただろう。それがとても惜しい。

そして恐らく14歳の加持リョウジは、自立し自律できる新しいシンジの姿であるようにも思う。キャラクターデザインの額や目が大変よく似ている。

この続きは、是非薄い本で捗らせていただきたい。何せ、ゲンドウとユイのハーフのシンジ(表現が狂ってる)と、加持とミサトのハーフのリョウジ(表現が狂ってる)ですよ。新しい呪縛に囚われたお姉さん達頼みます。

最終決戦直前のWILLEとシンジ

最終決戦に向けて、AAAヴンダーからの下船者が募られる。このようなシーンは、色々な作品で最終決戦直前を示すために描かれてきた。

そして、逆にAAAヴンダーに乗船するシンジ。シンジはまた拘束され、爆薬が仕掛けられた隔離室へ収容されるが、ここでもシンジは殆ど言葉を発さない。シンジは言葉を失っているのではなく、全てを受け入れている。

Qで全てに否定され、数少ない救いすら奪われたシンジ。その復活をどのように表現するのか、それはシナリオとしても映像としても非常に困難なことになるのではないかと想像していた。ここをしくじれば、シンエヴァは非常に陳腐なものに堕ちてしまう。しかし、言葉少ななシンジと、戸惑いの無い彼の視線、そしてアスカとのわだかまりを解いた回答が、そんな高慢な評論を打ち砕く。

AAAヴンダークルー

新キャラ達の日常

恐らく、国際宇宙ステーション(ISS)と同じく地上400km上空の熱圏であろうか、AAAヴンダーが宇宙空間で最終決戦に向けた艤装作業を進めている。ヴンダー内では人外未知の技術で重力が保たれているのであろう、クルー達の食事と会話、そしてWILLEメンバーの証である青いバンダナをお互いに締める時、彼等の個性や空白の14年間が仄めかされる。

なお、登場シーンの順番は作品とは不同。相当後のシーンからの引用も含まれる。

日向マコトと青葉シゲル

この物語に不可欠ながら、あまり大きく取り上げられることのない二人。声優もあまりにも豪華であるのに。

しかし、マコトのバンダナを縛るのはシゲルであり、シゲルのバンダナを縛るのはマコトであるべきなのだろう。二人が拳をぶつけ合うシーンは、これもまた一つの締め括りであり終局の象徴である。

伊吹マヤ

「これだから若い男は」。Q以降のマヤを象徴するセリフ。パリのカチコミ作戦ではひたすらに冷静で厳しい。しかし、恐らく命を散らしたであろう前任者へ手を合わせ、そして最終盤、新たな槍を生成する準備のシーンで、若い男達に、敬意の「これだから若い男は」という呟きを漏らす。

マヤは副長先輩一途に空白の14年間を生き延びてきたのだろうと思う。その中で様々な危機に遭いフラストレーションに襲われていたことだろうが、彼女にも終局がもたらされる。

北上ミドリと鈴原サクラ

本予告で最も印象的であったのは、激昂したミドリの表情ではないだろうか。「こいつ何かやらかすな」と。しかし、やらかしたのはサクラの方だった。

ミドリは家族全てをニアサードインパクトで喪い、サクラは父を喪った。この二人がWILLEの中でお互いを思い遣りながら友情を育んできたことがヴンダー撃沈後に判明する。

ミドリは登場時からお気楽キャラのような描き方をされてきたが、パリのカチコミ作戦では死の危険と紙一重の最前線でオペレーションを担当し、シンジのDSSチョーカーを作動させられなかったミサトに対して信頼性を喪失していることを遠慮園舎無く口にしている。

Qで、何故ここに来て新キャラを出したのか、鈴原サクラはファンサービスである意味が強そうだが、シンジへの敵愾心を隠さず観客の不快感を募らせるばかりであったミドリが、いつの間にか観客の代弁者になっている。ミドリも我々観客も、第三新東京市や清浄な大地や14年間(リアルでは8年間)を同様に喪失しているのだから。

多摩ヒデキと高雄コウジ

彼等もまた新キャラとして必要であったのか、Qの段階では非常に疑問であった。高雄は声優がナディアのネモ船長でありファンサービスであるのではないかと思われたが、ヒデキの意味合いは何なのだろう。

その疑問は青いバンダナを締めている時に氷解する。ヒデキは問う。14年前に、NERVの中で味方と敵とを区別するために青いバンダナを目印にしたのですよね、と。旧劇ではNERVの職員達は戦略自衛隊に殺戮されるだけの被害者であった(そしてこのシーンは、ジブリが制作したCHAGE&ASKA「On Your Mark」MVでの宗教団体への急襲シーンでもある)。ところが新劇では、NERV内の職員達もゲンドウと冬月の指令派とミサト・リツコの作戦部長・技術部長派とに分かれ、命の遣り取りを強いられていたことが暗示される。NERVも一枚岩ではなく多層構造を持っていた、という現実の組織で当たり前であることが、この二人の短い会話で端的に表現され、そして空白の14年間に恐ろしくおぞましいことが発生していたことが仄めかされる。

長良スミレ

Qでの登場以来、常に冷静な発言ばかりであり、カチコミ作戦などでの戦艦群や8号機の操演を担当するというプロフェッショナルの塊で、悪く言えば面白味の無い人物。

しかし彼女の声優である大原さやか氏は、序・破でNERV施設内アナウンスを大量に読み上げる役で出演されていたとのこと(Qの映画パンフレットによる)。このアナウンスオペレーターがスミレである証拠はどこにも無いけれど、声優繋がりで考えると、ミサト達を発令所の下の方から常に見上げながら仕事をこなし、そしてこの14年間はひたすらにミサトを信頼してWILLEやAAAヴンダー操艦に当たってきたのだろう、と想像が働く。

だからこそ、AAAヴンダーの最期をミサトと共にしようと「やっぱり戻ります」と口にするのはスミレでなければならなかった。そしてそれを止めるのが、N-ノーチラス号と共に散ったネモ船長であった高雄コウジであった点も、ナディアで子供心にトラウマを与えられた者にとっては小さな救いであったかも知れない。

南極にて

黒き月

逆ピラミッド型のNERV本部とプワーンと飛んでて、なんか笑えた。あの形、よく分からないんですよね。私はコーヒーが好きで臼型カッターの電動ミルを使っているのですが、その臼型カッターに見えなくもない。何かを削る機械なんかしら。的な。内部構造とか見たかったな。

アドバンスド・アヤナミシリーズ

冬月せんせ、なんか出来に不満だったみたいだけど、どこが?あと何がアドバンスドなんだろう。4体いたので、Evangelion Mark.09-A,10,11,12に搭乗していた模様。

なお黒波はNo.6だった。「知らない。私はきっと6番目だから」とは言っていない。

ヤマト作戦

NERVとの最終決戦の作戦名は、ヤマト作戦と命名されていた。TV版ではラミエル、旧劇では第六の使徒と言われた八面体クリスタルの使徒を撃破する際の作戦名は、日本の古名「八洲」より名付けられた「ヤシマ作戦」であった。それが遂に、日本のかつての首都であった奈良の国名であったり、日本全体を指す名称ともなり、大艦巨砲主義の象徴にしてSFアニメでの象徴的言葉である「大和・ヤマト」が作戦名に使われることとなった。「これが最後」と言わんばかりの名称であるし、この時点でミサトの自己犠牲はシナリオ上約束されてしまったようなものだとも言える。

遂にここに極まれり。ヤマトという音はそう思わせる歴史を幾重にも有している。

Evangelion Mark.07

ガイコツエヴァ。大量に噴き出して、それらがドリルを構成して弐号機と8号機の行く手を防ぐ。

この時の大量の粒子状の何かが集合体になって動く様、こじつけかも知れないけれど「サマーウォーズ」のOZ世界での攻防に似ていなくもない、と感じた。

そして、旧劇量産機と同様に醜悪だよね。「エヴァとかかっこいいとか言ってんじゃねぇ」と監督から突き放される瞬間。巨神兵(マンガ版ではなくて、映画版で火の七日間を生み出した方)にも見えなくもない。

NHGエアレーズング, エルヴズュンデ, ゲベート

それぞれ、NERVが人類補完計画のために建造していた空飛ぶ艦船。原材料よく分からん。

順に、二番艦にして「救い」の意、三番艦にして「原罪」の意、四番艦にして「祈り」の意。

なおAAAヴンダーは一番艦ヴーセを強奪したもので、その意は「贖罪」。

Evangelion Mark.09-A,10,11,12

09-Aから、顔にX状の筋が入った仮面を被るようになった。鎌倉のぼんぼり祭?で事前リークされていたデザインを踏襲。

パンフレットでは4機とも筋がXだけの顔と、09-AはIX(ローマ数字で9)、11はXI(ローマ数字で11)、12はXII(ローマ数字で12)を表す筋が加わった顔とが登場しているのだけれど、どこで切り替わったのか、そもそも両方映画内に出ていたのか、よく分からなかった。

8号機がこいつらをガツガツ食うわけですよ。目ん玉ギュルリンと飛び出させてビースト状態になりながら。恐らく09-Aから順番に食い始めて最後に12を食ったのだと思うのですが、最後にマリが「次はアンタね(ニタリ)」とMark.12を振り返った瞬間、12がビクッとしたように見えたのが笑えました。笑うところですよね、ここ。

NHGによる人類補完計画と冬月コウゾウ

新劇のセカンドインパクトが4体のアダムスによって為されたように、今度はNHG4艦でセカンドインパクトを起こそう、というのがゲンドウくんの仕掛け。

いやしかし、AAAヴンダーの意味不明なパラボラアンテナ3個、付けないか壊しておけよ、って思いませんでしたか、ヴンダー。あれ悪用されて人類補完計画発動じゃないのよ。ここも笑うところなのかしら。

不謹慎であるけれど、声優の清川元夢氏がご存命の内にエヴァが完結して良かったと思っている。清川氏以外の冬月せんせ、そしてガーゴイルはあり得ない。ナディアでは最後に塩の柱となった男が、シンエヴァではミサトに「タイマン上等!」と言わせながら空飛ぶ艦船を操りWILLEを翻弄しLCLへと還元される。かっこいい。これこそが冬月の最期にふさわしい。実は最も孤独であった人物。しかしそれは中の人の強さ故なので仕方の無いことなのである。

マイナス宇宙南極は割と快適そう

(訂正:マイナス宇宙はゲンドウとシンジとガイウスの槍とマリだけが入り込めたんだっけ?AAAヴンダーが墜ちたのはあくまでも南極?とはいえL結界密度とかどこ行った。)

ちょちょちょちょちょ、ミサトさん、下船して大丈夫なの?って思いながらコーラ啜ってたら、パキューンって音でコップ落としそうになりましたよリツコさん、本当に躊躇ねぇな。

シンジ、脳味噌拾ってる上に頭部空洞になって間接照明しているお父さんにもう少し驚こうか。

ミドリとサクラまで下りてきて、ここ、酸素濃度とか有害物質とか大丈夫なの?

既に精神世界やも知れず。

相変わらずの巨顔レイは、今回はキモい系CG。あんまり意味は考えないことにする。

激昂して味方同士で撃っちゃう展開は割とありがちなのだけれど、ミドリの方が大人で、サクラの方が撃ってしまった(おまけに命中させる精度)のは誤算。でもミドリがサクラに対して「もういいよ」と絞り出すように言い含めたシーンは、二人の終局として良かった。

葛城ミサトと赤木リツコと人類

ミサトはシンエヴァでは話すべきことを話し、そして壮絶に散った。最後に結わえていた髪を解いて、我々が知る破以前のミサトの姿を見せ、最大の見せ場を作り、後進への道を切り拓いた。ミサトファンとしては、この瞬間のためにシンエヴァ、いや新劇全体があったと言っても過言ではない。劇中で明確に死を描かれてしまったのは寂しいけれど。しかし、この現実世界に溶け込んでいったラストシーンのどこかに(それは映像の中でなくとも構わない)生きていることを願いたい。

そして、ミサトの女房役であったリツコ。TV版や旧劇では「親子揃ってバカだった」女性ではあったけれど、新劇では逆に、恐らく女であることを捨てて、ミサトやWILLEを支えている。中の人繋がりで、ONE PIECEのニコ・ロビンと並んで気高く美しいキャラクターで、だからこそ、ロビンの「生きたい!」やリツコの激昂が美味しい。14年前、サードインパクトを止めにVTOLで飛び立とうとする加持を追うミサトについて、リツコは「お腹に子供がいたから追うのをやめさせた」と言う。つまり、14年前の破のラストシーンで、観客もシンジも知らされていなかった「加持とミサトには子供ができていた」ということを、リツコはその時点で知っていたことになる。リツコこそが、ミサトとそしてWILLEを、つまりは滅び掛けた人類を支えてきた人物だと言える。副長先輩っ!マヤでなくとも惚れるわ。

そして、この二人の最後の共同戦線が、新たな槍「ガイウスの槍」をヴンダーから生成してシンジと初号機に届けること。「槍をシンジくんに届けるわよ!」この言葉は、エヴァの世界で人類が事態に対して唯一積極的に挙げた掛け声ではないだろうか。とはいえ、結局槍が何なんだか分からなかったけれど。ピノのロンギヌスの槍型特製ピックくらいしか理解の範囲は及ばない。突然新しい槍が登場し、ご都合主義だと嗤わば嗤え。とまれ、このセリフには鳥肌が立った。

人類補完計画

やっぱりマダオだった碇ゲンドウ

今回はゲンドウの心の叫びが聞けて本当に良かった。シンジとそっくりな男、ゲンドウ。それは生き方も苦しみ方まで一緒だった。ユイを求めて情けなく喚いた。それが聞きたかった。それでようやく、世界を巻き込んだ大迷惑に腹落ちが得られた。やっと終局が訪れた。

ネブカドネザルの鍵は、人の形を捨てて世の理を超えた情報を得るための道具。これについては、YouTuberであるeyes onlyさんがSEELEとの関連性を予測し、don fogさんはアダムやリリスの仮面が並行世界の情報を得るための道具であると予測している動画を各々アプロードされていらっしゃるので、それらを見てみると腑に落ちるかも知れません。ゲンドウはネブカドネザルの鍵を以て新劇以外の世界を垣間見ることができたので、旧劇の世界でのシンジの選択を知ったのでしょう。

旧劇同様のメタフィクション化

やっぱりこうなったか、と旧劇経験者は思ったのではないだろうか。本予告でのチープな第三新東京市のCG。世界がループして新たな第三新東京市が形成されたのでは?という説もあったけれど、CGには敢えてチープなテクスチャが使われ、それが特撮用スタジオであり背景は書き割りであったことが描写される。この特撮用スタジオは、シャッターなどを見ると正に東映のスタジオそのままであり、庵野監督が本作でアニメ制作としては初めて挑戦したプリヴィズ撮影(現実の俳優が演じる姿をモーションキャプチャで取り込みつつ動画を撮る手法)で使われた現場であった(2021/03/22 Mon. NHK総合「プロフェッショナル仕事の流儀 庵野秀明スペシャル」より)。

第十三号機と初号機とのタイマン勝負はミサトの乱雑な部屋や中学校の2-A教室などへ舞台を変えながら繰り返される。ミサトの部屋が映った瞬間、YouTuberのあどみらすく氏のチャンネルを思い出してしまって、ここら辺も笑う場所ですよね?

ユイ, シンジ, レイ, マリ

ゴルゴダ・オブジェクトと6本の槍。こういう謎が残るのもエヴァのまた楽しいところ。今見ると、封印柱やゴルゴダ・オブジェクトの封印文字は、ナディアのアトランティス人の文字にも似ている。書き辛さについてはマヤ文明の絵文字並みにユーザビリティに欠けると思うのだけれど。QRコード(デンソーの登録商標です)みたいなものかな。手で書くものじゃない。

さて、YouTuber eyes onlyさんは、

  • ユイ:唯一神
  • シンジ:子なる神(神児)
  • レイ:精霊なる神
  • マリ:イスカリオテのマリア=イスカリオテのユダ(使徒から外れた使徒)+マグダラのマリア(使徒の中の使徒)

として、三位一体論などから彼等の名前を解釈していました。なるほど、ユイがかつていたというゴルゴダ・オブジェクト、という奇妙な表現を聞けばますます納得が行きます。そして、マリが「ユイさん、人類も遂にここまで来たよ!」といった言葉と共に、AAAヴンダーの尻尾に乗りながらゴルゴダ・オブジェクトに向かって飛び込んでいく。ということは、マリもまたユイと共に、その随行者のようにゴルゴダ・オブジェクトからやってきたということだろうか。

が。要するに、ユイやマリが人類を弄んでいたようにしか思えないのってなんなの、という一縷の不満。

以前、あるTwitterアカウントの方から、「要するにユイはオタサーの姫でサークルクラッシャーなんですよ」という示唆をいただいた。あ、なるほど、こいつ人類クラッシャーだわ。

渚カヲルと加持リョウジ

シンエヴァの凄いところは、シンジさんがカヲルやレイまでをも補完してしまうところにある。

作っても作っても完結しない輪廻するエヴァの世界。それは、いつまでも救われないシンジがため。そのシンジを救おうとしていたカヲルは、シンジが大人になることを、いや既に大人であることを見失っていたがために、輪廻から解脱できなかった。

さて、渚指令は何なのか。加持リョウジが副司令の立場のようであるので、WILLE設立時の役職ではないかとする解釈もネットでは見掛け、それも否定はできないのだけれど、カヲルと加持がいる場所がネルフの指令室に見える場所であること、カヲルと加持の服装がネルフの制服であることから、私は二人がネルフ指令とネルフ副司令であるのだろうと解釈している。

そういう世界が、エヴァ制作にようやく終止符を打てるようになったことを「観察」した。ということではないだろうか。つまり、エヴァ世界の並行世界ではなく、マイトガインやTHEビッグオー的な「三次元人」。何しろ、石田彰氏と山寺宏一氏なんである。片や普通の顔をしながらラスボスキャラの代表格(「スレイヤーズ」から「はたらく細胞!!」まで怪しさの枚挙に暇無し)、片や7色どころか「14」色以上の声を持ちディズニーにドナルド・ダックの声を正式承認させた程の声優界のラスボス。

ネルフ指令室と見えているあの部屋は、スタジオカラー、です。きっと。最初はガイナックスであったけれど、庵野監督を筆頭とする制作陣が作り上げたネルフという箱庭。そこにいつまでも住まわざるを得なかったカヲルと加持は、ユイやマリよりも更に上位の階梯の存在ではないかと思わされるのだ。そして同時に、サードインパクトを止めてQに続く物語を続けさせた加持は、実はゴルゴダ・オブジェクトよりも深淵から現れた真のデウス・エクス・マキナかも知れない。

補完=落とし前

カチコミとかタイマンとか落とし前とか、色々物騒なシンエヴァである。

しかし旧劇で「死ね!庵野!」というネットでの書き込みを晒したくらいに精神的に追い込まれ、また腕白であり続けるのが庵野監督の庵野監督たる由縁と思う。

人類補完計画がいつしか「決着をつけること」、そして「落とし前をつける」に変化していき、最終的に作品と観客やファンとの間にも落とし前をつけた、ということだろう。そして。

そして現世(うつしよ)へ

神木隆之介という神の児

ラストシーンは、山口県宇部市JR西日本宇部新川駅へ、実写とアニメ描写とを組み合わせ合成させながら、マリとシンジとが駅から外へと駆け出していくものとなる。

庵野監督の故郷で、庵野監督にとって映画の象徴である鉄道・電車から街の中へ。

ここで私は最もゾワッと鳥肌を立てて興奮したのは、大人になった碇シンジの声を(エンドロールやパンフレットでは役名との対応が明示されていないのだが)神木隆之介氏があてていること。

庵野監督は、スタジオジブリ作品のように敢えて声優以外を起用したり、話題作りのために俳優やその時点での人気の高い声優を起用する、ということはしない傾向にあると私は認識している。それが、何故俳優の神木隆之介氏であるのか(神木隆之介氏じゃなくて神木きゅん、って呼びたい)。

冒頭で述べた通り、新劇「序」を始めた時、庵野監督はパンフレットで「子供達のためのアニメ」に危機感を抱いていた。しかしその後、ジブリ作品やディズニー作品ではないアニメ作品が興収ランキングに登場するようになり、その中にはオリジナリティや技術力の高さに溢れたものも見られるようになった。一方で庵野監督自身は、「シン・ゴジラ」で(「一般人の視点が少なすぎる」などの批判はあったものの)恋愛要素を排して純粋に怪獣と人類との戦いを描いた特撮作品でも一般からの高い評価を得ることになる。これらの事実が、庵野監督を「子供達のためのアニメへの危機感」から解き放ったのではないだろうか。

だからこそ、弐号機が使徒化した際には「もののけ姫」のデイダラボッチをオマージュする一方で、第3の村では「君の名は。」へのオマージュを描き、マイナス宇宙では「サマーウォーズ」へのオマージュを描いたのではないだろうか。つまり、父であり先輩である宮埼作品へのオマージュと、子であり後輩である新海作品・細田作品へのオマージュとを、同じ作品の中に登場させる。父と子との間に伝えるべきものを、エヴァで伝え、伝え切った、というメッセージ。補完計画の中で、レイは「Neon Genesis(新世紀または新約)」と呟き、新しきに続くものを悟ってスタジオを後にする。

映画全体の締め括りとしてその伝え切ったメッセージを象徴するものが、俳優神木隆之介いや、神木きゅんによる大人シンジなのである。神木きゅんは「借りぐらしのアリエッティ」「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」というジブリ作品に登場しているし、シンエヴァでオマージュとして取り込まれている「君の名は。」では立花瀧という主人公を、「サマーウォーズ」ではやはり小磯健二という主人公を演じている。

神木きゅんが繋いだ宮埼・庵野・細田・新海という各監督の作品を以て、庵野監督のアニメーションに対する危機感や飢餓感は補完されたと考えて良いだろう。それ故に、次は「シン・ウルトラマン」という特撮作品が登場するのである。

東日本大震災とクリエイター

新型コロナウイルス禍によって公開が延期されたきたシン・エヴァンゲリオン劇場版であるが、実際の公開日が2021年3月8日という2011年3月11日に端を発する東日本大震災(3.11)の丁度10年後に、そして卒業シーズンに重なったことは、奇跡の符合であると捉えている。ケンスケが言うように、何かの縁なのであろう。エヴァ新劇はQ以降明らかに3.11の影響を受けている。それだけではない。「シン・ゴジラ」も「君の名は。」も、3.11に対する追悼と希望の作品なのであり、シンエヴァはクリエイターとしての締め括りともなっている。

Qは、3.11から立ち直れない世界を真っ向から描いた。

シン・ゴジラは、3.11を経て、スクラップ・アンド・ビルドで立ち上がる世界を描いた。

君の名は。は、(セカイ系の活躍をお互いが忘却してしまうという仕掛けを使って)あなたを含めた誰もが誰かを無意識的に救っていて、そうやって今の「まだマシな」世界に繋がっているという無条件の現世肯定を描いた。

そしてシン・エヴァンゲリオン劇場版は、繰り返される人類補完計画の企てによって第3の村に襲いかかるエヴァの残骸を何とか食い止めて見せ、誰かを助けられる大人となった我々の背中を押してくる。

おわりに

さようなら、全てのエヴァンゲリオン。それは卒業のメッセージ。

しかし、そして、エヴァファンは、また考察や解釈を繰り返しながら、知識が広がっていくことを楽しんでいく。さようならは、また出会うためのおまじないなのだから。

1995年10月から始まったエヴァは、四半世紀以上の時を経て、日常を反映させながら日常の中に溶け込んできたのだから。

ありがとう、庵野監督とキャストとスタッフと関係者の皆さん。

おめでとう、全てのエヴァンゲリオンファンの皆さん。

以上