2022/04/03 公開
新年度と春愁
日本国内の多くの人にとって、毎年4月は新しい年度の始まりとなる。
私にとっても同様なのだけれど、こと社会人になってからは常に望まぬ組織編成や人事異動を受け、とはいえそれを理由に会社を飛び出すわけでもなく、まさに春愁という心持ちで満開のサクラを見上げることが常となっている季節でもある。関東平野ではサクラの後に白いコブシが咲き、大きな花びらをボテボテと地面に落とすため、気持ちと共に下がった視線の先に映るそれらもまた新年度の憂鬱の象徴となっている。
そんな新年度の花曇りの日に、改めてある曲とあるアニメに触れてみた。
チャゲアスの曲と謎のアニメ
1994年にCHAGE&ASKAが発売したOn Your Markという曲がある。
On Your Markとは「いちについて、よーいどん!」の「いちについて」という意味になる。
そして1995年にはスタジオジブリがプロモーション・ビデオとしてのアニメ作品を制作・公開している。この1995年は、年度末処理に追われる3月にオウム真理教が地下鉄サリン事件を起こした年でもある。
6分40秒という短編の作品ではあるが、私にはシナリオの内容や結末の解釈が難しく思え、しかし映像は非常に魅力的で長らく心に引っ掛かり続けている作品だった。
アニメ作品としての素晴らしさ
解釈の難解さに無頓着になったとしても、スタジオジブリ作品としてのOn Your Markは素晴らしいものだ。
牧歌的な風景と対比される異様な巨大建造物。高密度に都市化された風景。残虐ではあるが優れた戦闘描写。ミッションを与えられた者のかっこいい立ち姿。己れの正義が醸成される経緯から叛逆と逃走へ至るクライマックス。イノセントに見える風景に溶け込んでいくエンディング。
セル画の描き込みは非常に緻密で、アクションシーンは天空の城ラピュタのように観客をワクワクさせる。楽曲と映像とのシンクロも鳥肌ものだ。
これらをそのままに味わうだけで、本作品は十分な価値を有していると思う。
しかしやはり、語られない謎がどうしても引っ掛かる。引っ掛かったままに、私は四半期世紀を過ごしてきた。
一次情報
BD品質でOn Your Markを視聴できる!その他にもジブリの佳作小品を数多く楽しめる。ジブリ作品に限らず、アニメファンには是非入手いただきたい。
また、歌詞を字幕で表示しながら再生することが可能であるので、内容を解釈したい場合におすすめ。
歌詞全体を俯瞰したい場合には、こちら。
そして、宮崎駿氏がOn Your Markに制作者として言及しているのが本書。
教科書
これらの情報に触れていただければ、作品解釈の幅と深みが増すと思う。なお、解釈は解釈に過ぎず、作者が種明かしをしていない以上は仮説に過ぎない。
岡田斗司夫氏の動画は、購入の場合には前編後編それぞれ1,000円となるが、2,000円の単行本を購入する以上の価値があると、個人的には思う。
なお、氏の語り口と説明粒度の細かさから、まるで氏の解釈が正解で真実のように感じてしまうが、あくまでも解釈であり仮説の一つ(実際には六つの仮説が内包されているのだが)に過ぎない。
宮崎駿氏は、現実に存在するもの、荒唐無稽であっても現実に存在し得る理屈を付けられるもの(至極SF的なもの)、のみを作品に登場させる。
巨大掲示板のスレッドに、On Your Markに登場する銃器の解説があった。
解釈してみる
楽曲と映像を追いながら
On Your Markを自分なりに解釈してみる。
(イントロ)
この現実社会と連続性がありそうな牧歌的な風景の中に、唐突に異様な巨大構造物が現れる。
主旋律の始まりと共に、VTOLのような航空機の爆音が響く。そして巨大なトンネルを抜け異世界へ誘われる。ここから、何かの深部へ入り込む。この「深部」とは「生産する者の心そして業」だと、私は思う。
「僕らはいつもの笑顔と素顔で」
武装警官が手にする銃はガリルARという(恐らくフルオートの)アサルトライフルで、連続して弾を発射することができる。更に手榴弾まで装備している。
対するカルト教団の信徒達は、高性能ではあるがセミオート(引鉄を引きっぱなしにしても連続発射はされない)の短機関銃H&K MP5SDと拳銃というガリルARには威力が落ちる銃器で武装しており、弾の撃たれ方は武装警官達とは明らかに違う。
部屋内の信徒にライフルの弾を撃ち込み、手榴弾で破壊を尽くす様は、エヴァンゲリオン旧劇場版のネルフ本部占拠、特に電産室内を火炎放射器で焼き尽くしたり降伏の意を示した職員を撃ち殺すシーンを思い起こさせる。岡田斗司夫氏は、On Your Markを本歌取りしてネルフ本部占拠が描かれたと述べており、真偽不明であるものの説得力がある。
ところで、カルト教団拠点に置かれた巨大なお鈴に浮き彫りにされた文字。「夢」と見えないだろうか。「夢の斜面」「夢の心臓」と、この楽曲では「夢」が重要な言葉の一つとなっている。単純に見れば、警察とカルト教団という善悪二元論にもなりかねない本作だが、警察は虐殺を行ない、生存者は研究材料とされ、決して善悪が明確な世界ではないことが分かる。恐らくカルト教団にもまた正義があった筈なのだ。
「落ちて行くコインは二度と帰らない」
人が生み出したものは、その手を離れれば生産者のものではなく、世界の中に溶け込み発散していく。
生産者といえど、二度と手にはできない。
「夜明けを追い抜いてみたい自転車」
映像として重なるのは、高級スポーツカー(アルファロメオのジュリエッタスパイダーという高級レア車種)。
自転車にも当然高級車種はあるけれど、人力でも良いから駆け抜けたいという願望に、更なる幻想が重なったものか。イントロでは牧歌的風景は現実の延長であったようにも見えたが、この時点で現実と虚構との混在が始まる。
VTOLが突入していったトンネルからこちら側=観客の中へ、虚構が溢れ出す。
「いつも走りだせば流行の風邪にやられた」
作り出したもの、作り出そうという行為は、常に世間や空気や体制というものに巻かれ撒かれていく。
ここで初めて、虚構中の虚構である翼を持った少女が登場する。岡田斗司夫氏は、あのような肉体で羽ばたける筈が無いし、それを分かって宮崎駿氏は作画したと指摘する。そう、この少女は完璧な虚構なのだ。そもそも腕が変容した筈の翼が、何故両腕を持つ者の背中に存在するのか。四本腕か。明王か。昆虫か。
「はやりの風邪」は、四半世紀を超えて新型コロナウイルス禍と不思議に符号する。はやりの風邪に翻弄される我々は、今On Your Markをまた新たな視座で観ているに違いない。
(間奏)
ファーストコーラスが終わる頃、翼を持った少女が回収される。それを見送る二人。このシーンの描写時間は非常に長い。ミッションを背負った者が何かを逡巡する姿。伏線が込められると共に、かっこいい。この時間がストーリーに深みを持たせる。
「僕らは心の小さな空き地で」
躓く、思い悩む場所。思索。逡巡。
誰しもが通過し、いや通過できずに囚われる場所。心の小さな空き地。
「互いに振り落とした言葉の夕立」
突然に激烈に湧き起こる感情と意欲と生産物。しかしそれは果たして他者に望まれ受け入れられるものなのだろうか。
楽曲を生み出し続ける者は、歌詞という言葉、曲という音の言の葉を、アニメを生み出し続ける者は、そのアイディア・ストーリー・台詞・動き・効果音、そして配給や販売という生産活動、それらを編み続け、他者へ浴びせ掛け続ける。
夕立のように生み出し続け、夕立の雨だれのように払い落とされる。その連続と繰り返し。
「答えを出さないそれが答えのような」
そのような生み出し方や生き方だってあるだろう。何故ならば…
「針の消えた時計の文字を読むような」
何が正解なのか分からない、誰も指針を示してくれない。それなのに読み取っていかなければいけないのだから。
答えを出さないことで逃げ続けることだって答えにして良いだろう。
でも…
「全てを認めてしまうにはまだ若すぎる」
答えを出さないままでいられるのか。針の消えた時計の前で立ち止まっていられるのか。
まさか。
この瞬間から、物語と映像は、遂に後戻りのできない叛逆行為へとコマを進める。歌詞と映像とのシンクロが、鳥肌を催す。
「いつも走りだせば流行の風邪にやられた」
陽光の下への場面転換。
走り出せば流行の風邪にやられる。流行の風邪にやられても、走り出すことをやめられない。
「僕らがこれを無くせないのは」
視界が広がる。奥行きと深さと高さが、洗練された構図と共に画面に展開される。これまで狭かった画面が、一気に広がる。
そう、この感動を、この情動を、この欲求を、我々は、生産者も消費者も、無くすことはできない。
「夢の心臓めがけて」
夢の心臓とはなんだろう。生み出し続けようとする、或いは生み出し続けざるを得ない人間の生産欲求なのではないだろうか。歌詞や曲、そしてアニメといった創作。それらを生み出す源泉であり、やがて到ろうとするエデンの園。それが夢の心臓なのではないだろうか。
同時に、心臓そのものが「夢」なる目指すものに他ならないのではないか、とも思う。
楽曲自体チャゲアスの15周年を意識したものだという。本作がジブリとのクロスオーバーで神作となったことは偶然の積み重ねであったとしても、チャゲアスにとっても、宮崎駿氏にとっても、生産者やクリエイターとしての自身の投影作であったのではないだろうか。
(間奏)
セカンドコーラスの終わり。二人と少女の世界も終わる。彼らは都市の深淵へと墜落し、終焉を迎える。
(転調)「そして僕らは」
違う。終わらない。終われない。繰り返す。繰り返してみせる。
生み出す行為のループが描かれる。これは回想ではなく、やり直し。ここで、On Your Markがやり直しと繰り返しの「いちについて」であることが明らかとなる。
「いつも走りだせば流行の風邪にやられた」
転調しラスサビへと向かう「そして僕らは」でストーリーも大きな転換を迎える。光の中で巻き戻されるシーンは、生み出したもの=翼を持つ少女が虚空へ上昇するという幻想を挟みながら…
「僕らがそれでも止めないのは」
生み出し続けてしまう、生み出すことをやめられないという「業」を暗示させながら、理由の分からないジェット噴射という奇跡を起こす。
「夢の斜面見上げて」
生み出す力の源泉つまり心臓そのものである夢へと続く斜面。そこを見上げながら、ジェット噴射を続ける車体も上昇していく。
ここでもまた歌詞と映像とが奇跡のシンクロを見せる。
「行けそうな気がするから」
「行ける」「行く」ではなく「行けそうな気がする」。岡田斗司夫氏はチャゲアスを「未遂の帝王」と評している。確かに未遂であるし、未遂どころか足が竦んでいるかのような「行けそうな気がする」。
しかし、生み出す行為というのは、生きていくということは、そんなものなんじゃないだろうか。誰も「行ける」と思って生きてはいない。「行けそうな気がする」と恐る恐る歩んでいるのが人の生というものではないだろうか。
「On Your Mark いつも走りだせば」
「行くな」「出るな」と我々を躊躇させる長いトンネルを抜けると、そこには汚染された聖域が現れる。
ストーリーがイントロへ繋がり、大きなループが閉じ始める。視点が大きく回転し、ストーリーがカタストロフへ向かいつつあることを観客は気付いていく。
「On Your Mark 僕らがこれを無くせないのは」
汚染された世界へ飛び出し、汚染された世界へ翼を解き放つ。
世間へ飛び出し、世間へ自身の生産物を放ち問う。
それは、人が何かを生み出す存在であればこそ、絶対に止められないこと、無くせないこと。
「夢の心臓めがけて僕らと呼び合うため」
心臓そのものが夢、生み出し続けるものこそが自身の本質。それらは呼応し合い、いつまでも繰り返し、やり直して生産を続けていく。
自身が生み出したものが自身と呼応する様は、翼を持った少女とASKA風警官との視線の交わし合いに暗示されている。
自身が生み出したものへの愛情と別離は、CHAGE風警官の接吻に暗示されている。
(エンディング)
自身が生み出したものは、自身の手を離れ、自身の手の届かないところへと去っていく。落ちて行くコインが二度と帰らないように。しかし、生み出したものは、落ちるのではない。果てない空へと飛び立っていく。そう信じよう。
黄色いスポーツカーは道を逸れて停止する。汚染された世界で命が絶えた様だと解釈することも可能だろう。その一方で、もう手の届かないところへと飛び立ったものを見送り、足を止めた様子と解釈することも不可能ではないだろう。
恐らくは、死んだのかそうでないのかは、問題ではない筈だ。何故ならば、生み出したものを送り出し終わった時、また生み出すことが始まっているから。
このエンディグでは、また繰り返しとやり直しが始まっているのだ。
まるで、シン・エヴァンゲリオン劇場版のリピート記号「:||」のように。
生産する者の業
謎ばかりであったOn Your Markを自分なりに解釈できたのは、シン・エヴァンゲリオン劇場版を観て、なんとなくではあれ一年間噛み締めてきたからなのではないかと思う。
庵野秀明氏ご自身が、新劇場版のパンフレットでエヴァを「やり直しの物語」だと称されていた。
これは物語世界が複数の宇宙や時間軸をまたいでループしているということだけではなく、いやもっと重要な意味として、庵野秀明氏自身の創作と制作の繰り返し・やり直しを指しているのだと思われる。
そもそも。
何かを生み出し続けるという行為は、ポール・セザンヌがサント・ヴィクトワール山を、クロード・モネが睡蓮を、繰り返し繰り返し描き続けたように、やり直しにやり直しを重ねることに他ならない。
やり直しは成長や生業のために必要に迫られたものであると同時に、止めることができない・無くすことができない性でもある。
それは楽曲を生み出し続けてきたCHAGE&ASKAの場合も、アニメを生み出し続けてきた宮崎駿氏の場合も、変わらない筈なのだ。
『出発点―1979~1996』の中で宮崎駿氏はアニメ作品On Your Markについて「その内容をわざと曲解して作っています」「ちょっと悪意に満ちた映画なんです」と述べられている。これを、チャゲアスのヒーローとして描いたり虚飾のキャラクターとして描いたり、と解釈する(岡田斗司夫氏の解釈の一部)ことも十分に可能だし妥当でもある。
しかし私は、生み出し続ける者の「止められない生産の繰り返しとその苦しみ」を「クリエイターの業」と暗喩した(明言はしないが正面から捉えた)ことを「曲解」「悪意」と氏は表現したのではないかと思うのだ。
クリエイターが純粋に生産物(成果物)だけで評価されるのではなく、そこに至るまでの喘ぎや足掻きを見透かされるというのは、ひどく居心地が悪いものだと思われる。氏はチャゲアスの作品にその水面下を見出し、同じクリエイターとして共感と悪戯を示した。それが「クリエイターとして、いちについて、よーいどん=On Your Mark」なのではないかと思うのだ。
業を持つが故の讃歌
生産する者の業は、クリエイターには限らない。
我々一般人の日々の仕事や学業もまた、この業に塗れ、その業故に続いていくのだ。
農作物を育てること。家畜を飼うこと。魚を捕えること。モノを作ること。書類や帳票を作ること。コードを書くこと。サービスを提供すること。すなわち、あなたの手によるものが、あなたの手によって誰かに渡されていくこと。
過去の叡智を学ぶこと。いずれ来る問題(プロブレム)解決の局面に取り組むために問題(クエスチョン)解決の訓練を重ねること。すなわち、あなたが日々学び、誰かに伝えていくこと。
これらもまた生み出すこと・生産行為であり、一つの生産が終わると、進化を図るため、反省を活かすため、繰り返しとやり直しを重ねていくことになる。
生産する者の業は、クリエイターには限らない。生殖以外の生産行為を身に付けた人間という存在全てに、等しく与えられた原罪であり価値なのだ。
止められないこと・無くせないこと。繰り返すこと・やり直すこと。それはあなたが人間である証であり、唯一無二であるあなたの価値なのだ。
On Your Mark。あなたは何かを生み出すかけがえの無い存在だ。いちについて、新年度、よーいどん!
(おわり)